現在、何本かのメールマガジンの配信を受けています。どれも面白く、ためになるのですが、その中から今回は小学校の先生が配信しているメルマガの話から。その先生は、千葉大学附属の小学校で教鞭をとっていらっしゃる松尾英明先生。
もちろん子供を育てるとの視点からの記事なのですが、これが自分の子育てに対する反省(むしろ猛省)の感情を引き起こすのがしょっちゅうなのは当然として、その上に現在会社での人材育成についてもとても示唆のある話を提供して下さっています。自分自身の生き方について考えさせられることも多い。これだけの情報をタダで提供して下さることに頭が下がります(興味の湧いた方は、まぐまぐのmag2 0001211150 「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術 を購読ください 決して先生やまぐまぐの回し者ではありません)
このメルマガの昨年末最後の12月31日配信「ジェンダーフリーは関係ないか」と年明け1月6日号「多様性を受けとめる教室とは」が、また考えさせることの多い内容でした。
今や小学校でもジェンダーフリーあるいはLBGTについて話し合う時間を持っていることに驚いた私は古い人間に属するのかも知れません。松尾氏は、ジェンダーフリーについて真剣に検討することは、全ての人のもつ人権について、再検討することであり、今の世の中が人権意識の根本に歪みが生じていることに気付くということだと指摘しています。言われればその通りだし、年代的に若い人たちの方の考え方、受け止め方は昭和世代と大きなギャップがあり、それを埋めるには上の世代が勉強して正しい知識を身につけ、嫌悪や拒否の先入観は消さなければならないというコメントには納得しかありません。
その点、子供たちの方が感じ方が素直なゆえにむしろ思考は柔軟で大人なのかも知れないと思いました。学校に「ゲイ」をカミングアウトしている方を呼んで話をしてもらったところ、「偏見をもたないようにしたい」「もし自分の友達にそういうことがあっても、今まで通りの友達としてやっていきたい」との感想を寄せた子供の方が偏見で物事を捉える大人よりよほど成熟していると言ってよい。
松尾先生の話は続きます。一方で「やはりどうしても受けいれられない」という子供もいて、この意見もあっていい。全員が全員、ある一つの考え方を受け入れなくていい。そういう意見を受け入れることも、受け入れないことも、その人の権利と書いてありました。「受け入れないという人の意見を認めるのも、多様性の尊重」とあります。松尾氏は、学校というのは、これが尊重されない場であり、「やらない」「嫌い」「参加したくない」「行きたくない」を基本的に認めない。何とか「そう言わないで。ね?」とやる気を起こさせようという場であると指摘しています。
これ、企業でも同じですね。組織で動いている以上、一人ひとりが自分の思いに忠実に、すなわちバラバラに行動されては困る。あなたの言っていることはわかるし、純粋な考え方とは思うけれど、その得意先とはこれまでの長い付き合いもあるわけだからそれはまずい、とかなんとか言って我慢させているようなことはあちこちで散見します。
日本を代表する劇作家の平田オリザ氏のよく言う言葉に「シンパシーからエンパシーへ」(または「同情から共感へ」、「同一性から共有性へ」とも言い換えています)と言うものがあります。学校で起こるいじめ問題にしても、いじめられた子の気持ちになって同情(シンパシー)するのではなく、いじめられている子どもの気持ちと、より多くの子どもたちの気持ちとに共有(エンパシー)できるところを見つけて、少しでも「心の痛み」の共有部分を広げてゆくアプローチが必要と言っています(これだけではちょっとわかりにくいですね。下のリンクから講演録を読んでいただくとよくわかると思います)。
平田氏曰く、最近の若者はコミュニケーションを取るのが下手だとか、企業が採用するときにコミュニケーション力を重視するとかよく聞くけれども、これからのコミュニケーションで最も大切なのは「共感する力」であり、「あなたの考え方は私とは全く違うし自分はその考えには立てないけれども、なぜあなたがそう言っているかはわかる」ことだと。オリザさんの話はネット上でいくらでも見つけることができますが、その中でもあえてこれだけ読めば一通りわかると言うものをあげると、2018年4月18日に国立研究開発法人科学技術振興機構・社会技術研究開発センターから発行された社会技術レポート No.59「科学技術と知の精神文化 わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何かーと題する講演録が良いと思いますので関心のある方は是非どうぞ。
どの企業でも人材育成が重要課題と言いますが、その実やっていることは上司が自分のコピーを作ろうとしているだけで、その通りにならないと「あいつは何度言っても理解してくれない」となっていたりします。逆の立場も同様。部下が自分の上司は俺のことを全くわかってくれない、と言うのもその裏返しなのだろうと思います。
平田オリザ氏は、このようなコミュニケーション不全を起こす原因は、学校教育にあると言っています。日本人は同情することはできる。可哀想な人、不運の続く人に情をかけることはできる。これは自然と身につく力。一方、「共感」は教わらないと身につかない力なのに、日本の学校はそれを教えてこなかったので、できないのは当然なのだそうです。
はい、確かに海外では「共感する」ことを教えているらしい。多分一年以上も前ですが、ブレイディみかこさんの「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の一部がインターネット上で紹介されていたページを読んだところ、中学生の息子さんが「今日、学校でエンパシーを習った」と帰ってきたことが出ていました。で、学校ではどう教えたのか。それは「他人の靴を履いてみること」とありました。なるほどここをスタート地点としていろんなディスカッションを進めていくのでしょうね。この本にも、「シンパシーは自然と沸き起こる感情、エンパシーは能力、知的作業」と書いてありました(インターネット上で一部しか読んでいなかったので先ほど改めて楽天の電子ブックスで購入しました)。
松尾先生の話は、日本の学校に存在する謎の校則にも及びます。本来、髪を伸ばそうが短くしようが、結ぼうがボウズにしようが、個人の好みであり、そこは他人には決められない。みんな違っていて当然。ここは多様性を認めるところだと。ましてその人の恋愛対象が男性か女性か、はたまた両方かなど、到底他人が決められる訳がないと言われればまったくその通りですね。新しい時代の教育には、「観」の転換が最も大切だと結んでいます。
私自身を振り返ると、こうして文章を書いたり、本やブログ、ネット記事を読んだりしているときは、ふんふん、わかる、わかると思っているのに、いざ会社に行くと、いやそれ以前に家人や子供たちとはコミュニケーション不全を起こしてばかり。いつも自分の価値観を前面に押し出しています。反省しきりです。
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