世のなかは、白と黒ばかりではない。その真ん中に広大なグレーゾーン(中間地帯)がある。天下というものは、このグレーゾーンを味方につけなければ、決して取れない。真理は、常に中間にあり。
(向谷匡史『田中角栄 相手の心をつかむ「人たらし」金銭哲学』より)
世の中は白と黒ばかりではない
清濁あわせ飲むという言葉があります。田中さんはそれを地で行くかただったようです。それに対する人の評価はさまざまで、度量の大きな人物という人もいればダーティなイメージを持つ人もいましたね。
「世の中は白と黒ばかりではない。敵と見方ばかりではない。その間の中間地帯、グレーゾーンが一番広い。そこを取り込めなくてどうする。真理は常に中間にあり」と言っていたそうです。確かにものごとはそうは単純に白黒つけて割り切れるものではありません。それは誰もがわかっているはずのことです。
今、「はず」と書いたのには訳があります。みんなそうとわかっているのに、どういうわけか世の中はA派とB派の2種類しかいないように話を進める人が多いように思います。
良い例が緊急事態宣言中のテレビ報道ですね。去年の緊急事態宣言時に比べて人の出が増えているとか、渋谷で歩いている若者にインタビューしてみようとか、連日、あーだ、こーだとかしましく報道しています。
この報道を見ていると、緊急事態宣言下、都知事の呼びかけを守ってじっと家にいる人たちと、呼びかけに反して街を闊歩する人間の2種類の人がいる、なぜ若者は家にじっとしていないのか、このままでは感染爆発が起きてしまう、などとしたり顔のコメンテーターを用意して話を進めています。
何を言ってるのだろう・・・
世の中の大多数の人たちは、節度を守って行動しています。新宿で、赤羽で、路上に若者たちが集まって喫煙所の外側で缶チューハイを片手に立ち飲みしているかも知れないが、それは東京都民全体から見たらごく一部の話。
この1年間、コロナと一緒に暮らすことを経験し、外にはできるだけ出たくはないものの、そうは言っても会社に行かなければ給料がもらえず生活できないし、会社に行けば得意先にも出かけなければならない(もちろんオンラインで済む商談はオンラインにしますが)。でもこの1年間の経験のおかげで、外に出ることそのものが「悪」なのではなく、外へ出てもマスクをしっかりしてしゃべらないようにすれば感染の可能性を抑えることができることをみんなが知り、その枠の中での行動をしているわけです。
同時に、どんなに注意しても完全の可能性をゼロにすることはできず、確率論として感染しにくい行動をするまでしかできないことも皆知っています。
そんな中で一日中家にいると頭が、身体がおかしくなるし、生活費も稼げなくなるので、外に出ているだけのことで、そういう人が大多数なわけです。
ところがメディアは真面目に家から出ない人と、構わず立ち飲みしたりブランドショップで買い物したりする人の2通りに色分けしての見方しかしていません。おかしいんじゃないか。
冒頭の「グレーゾーン」の言葉を使えば、今のメディア、あるいは自治体の長は大多数の「グレーゾーン」の集団を無理やり「白」か「黒」に色分けしようとしているように見えます。その結果、世の中に汲々と息の詰まるような雰囲気を作り出している。
そんなことをすることにいったい何のプラスがあるのでしょう
我を通すだけが能じゃない
ものごとは、簡単に割り切れるものではありません。我々は常に悩み、失敗しては後悔し、こうしておけばよかったなどと反省しきりで生きています。こうした真面目な人たちの存在を軽視し、一部の奔放に突っ走っている人たちだけを取り上げて対策を声高に叫ぶことに意味があるのでしょうか。どっちつかずで曖昧な状態にある「グレーゾーン」の人たちにこそ真理があるのではないでしょうか。
田中角栄さんは、「どのような組織においても、自分を支持してくれる人間が一握りはいる一方で、何でも反対する人間が、やはり一握り存在する。そしてその間には利あれば自分に付き、損ならば離れるという多くの『日和見』の連中がいて、この中間地点こそ『大衆』を意味し、侮ってはならない存在だ。大衆をうまく取り込むことをせずに一国のリーダーになることなど、至難の業だ」と考えていたそうです。
そのことを身に染みて理解していたからこそ、若手議員に対して「バカになってでも、周りへの目配り、気配りを忘れるな。他人の意見に耳を傾けてやれ。我を通すだけが能じゃない」と説いていたと言われています。
今日、テレビに大写しになるリーダー諸氏は「我を通す」ばかりの人たちに見えて仕方ありません。天下というものは、このグレーゾーンを味方につけなれば、決して取れない。真理は常に中間に有りとの第64代、第65代内閣総理大臣の言葉を学んではいかがでしょうね。
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